持ち主の嘆き悲しむ様子を見てみたかったが、初めての経験に興奮している耕作にそんな余裕はなかった。
 満面に笑顔をたたえながら食品売り場に戻った耕作は、二人の娘に日頃は許していないキャラメルを買い与えた。美智子だけが怪訝な表情を耕作に向けるのだった。
      
 インスタントラーメンと、冷蔵庫にありったけの残り物何でもブチ込みチャーハンで昼御飯を簡単に済ませると耕作はうたた寝を始めた。先程のスーパーでの緊張感が一度に押し寄せてきたのだ。それに、夕べは熟睡していたようで、悪夢ばかりを見続けていたから睡眠は浅かったのだろう。
 夢の中に紫ラメの車が出てきた。運転手は何故かしら前の日に交差点で耕作に唾を吐き掛けた金髪の男であった。
 金髪の男は驚愕の表情で前方を見ていた。口を大きく開けてはいるが、声にはなっていなかった。
 金髪の男が怯えた表情で見つめているのは耕作であった。耕作は大型のユンボに乗っていた。工事現場でやたらと大きな穴を開ける重厚な作業車両である。
 無表情なままで耕作はユンボを操り紫ラメの車のボンネットに鋼鉄の爪を突き立てようとしていた。
「思い知るがいい」
 夢の中で耕作が金髪の男に吐いた台詞を現実の世界で聞いた美智子は、その険しい寝顔と耳を疑う台詞にドキッとなってしまった。「ちょっと、起きてよ。いつまで寝てるの。自転車の乗り方を教えてあげるって子ども達と約束したんでしょ」
 強い口調の美智子に揺り動かされ、耕作の意識は夢の中から現実の日曜の午後三時に引き戻されるのだった。
       
 耕作は居間から会社に行くと美智子に言った。
「どうして?」
 怪訝そうな顔をして美智子が尋ねた。
「せっかくの日曜日なのに仕事の続きなんてしなくていいじゃない。月曜日に車で会社に行けば済むことじゃないの?」
 満足な答えを返そうとしない耕作に美智子は追い討ちをかけるように言葉をつなげた。 美智子は耕作の苦労を知らなかった。
「月曜日に?、そんな事したら何時に家を出ればいいと思ってるんだい?」
 耕作の質問に、今度は美智子が答えを返せなかった。
「いいかい、月曜日っていうのはね、ものすごく道が混むんだよ。車でなんか行ってたら暗いうちから家を出なけりゃならない。日曜日なら道も空いてるし一時間もあれば会社に着くんだ。遅刻なんて絶対にできないだろ、会社に迷惑がかかってしまうじゃないか」
 耕作は生真面目な男なのであった。社会人である以上、遅刻はもっとも上司に嫌われることと思い込んでいた。
 耕作の言葉に納得したのか、それとも久し振りの日曜のドライブが美智子の心を動かしたのか、二人の娘を連れて営業車に乗り込んできた。
 耕作が言ったように日曜日の道路は気が抜けるくらい道が空いていた。耕作が言った通り、一時間で家族四人を乗せた営業車は会社の契約している駐車場に着いた。
 帰りは一時間半の電車の旅を家族全員が楽しんだ。昨日、電車の中で見た家族連れのように、二人の娘は窓に向って椅子に反対向きに座り車窓から見える景色を喜んでいた。一瞬、電車の中で嫌な目に合った事を思い出しそうになったが、二人の娘の笑顔はそんな嫌な出来事を吹き飛ばしてくれるのだった。
       
 明くる日、耕作はいつものように満員電車の中でみかん箱のみかんのように愚痴も言うことができずに圧迫されていた。いつもなら怒りと諦めが交差する時間ではあるが、今日の耕作は違っていた。
 そう、今日の耕作はまたもや平成の『世直し大明神』山路耕作になっていたのだ。
 耕作は首を傾げる事さえままならない満員電車の中で目だけを動かしてターゲットとなるべき若者の姿を探していた。
 そして、会社のある駅の四つ手前の駅でようやく早朝の満員電車には不似合いな若者の姿を発見した。
 獲物は一人だった。所々黒い部分が残った金髪ピアスの若者は話し相手すら無く、一人で吊り革にしがみついていた。仲間のいない若者など屁のような存在である。傍若無人な態度も横柄な口の聞き方も仲間がいて初めて彼等は成し得ることができるのである。一人きりの若者なんてカラスの群れに入り込んだ猛禽類のようなものである。カラスに追い回され、つつき回され、ほうほうのていで逃げ回るのがオチである。
 耕作にとって絶好の獲物であった。慣れてないのか若者は電車の動きに合わせて自分の体重を移動させるという満員電車に慣れた者なら誰でもできるワザを体得していない様子だった。
 相当苛立った雰囲気が若者から伝わってきた。
「ちょっと何なの」
「おい、無茶するなよ」
 数々の罵声を浴びせられながらも耕作は着実に満員の人込みをかき分け若者に近付いていくのだった。
 それはまるで突然ゴジラが出現して逃げ惑う市民と逆行して、ゴジラに近付いて行こうとする正義の味方系チャレンジャーのようなものだった。
 全ての人間やカバンが耕作にとっては行く手を阻む障害物であった。しかし、OLや疲れ切ったサラリーマンの中傷の声は、かえって耕作の耳には力強いエールのように聞こえてきた。
      
 若者の前に辿り着いた耕作は若者には背を向けて吊り革にしがみついた。
 そして、下っ腹に渾身の力を入れた。
 頭の中でもう一人の耕作が微妙な加減を要求するのだが、本物の耕作はそれどころではなかった。危うくウンチが飛び出そうになってしまった。しかし、心の中でコウモンに叱咤激励をとばし、それでも「耐えられましぇ〜ん」と弱音を吐く軟弱コウモンに喝を入れてようやく現物の登場は押さえることができた。
 むせ返るような満員電車の中でパワー全開の屁は耕作の怒りも伴って強烈な匂いを漂わせた。主犯者である耕作ですら「ウッ」となってしまう程の悪臭である。相当臭い。
 回りの人々の反応がしっかりと伝わってきた。
 全員が、満員電車というシチュエーションの中で行われた理不尽かつ無礼な行為を咎めているのだった。
 責任者不明の屁に怒りを向けながらも、抵抗する方法はその場から逃げるしか手はないのであった。しかし、逃げるといっても満員電車の中、人々は息を止めるしか抵抗する術を持っていなかった。しかし、そんな愚かともいえる行為はかえって息が続かなかった時に大きく深呼吸することで被害を大きくしてしまうのだった。
 阿鼻叫喚、電車の中は地獄さながらの様相を呈してきた。
 そして、耕作はゆっくりと後ろを振り返った。
 耕作の眉間には深いシワが刻まれていた。常識ある社会人の風貌が耕作の全身からオーラのように漂っていた。
『何だ何だ、こんな所で屁をこくなんて…。まったく非常識な奴だ』
 耕作は若者に対して最上級の侮蔑の表情と迷惑なんだよナという顔をした。
 耕作の態度に若者は無実を訴えるかのように呆然とした表情を浮かべた。しかし、時既に遅しである。
 耕作を睨み返そうとした若者は回りの乗客全ての人から『臭っさい屁こくなよ』という表情でにらみ付けられていた。
 金髪ピアスに天誅!
 若者は冷たい視線を全身に受け、おそらく自分が降りる駅ではないのだろうが、次の駅でコソコソと降りて行った。
「まったく失礼な」
 出て行く若者の背中に耕作は言葉を投げ付けた。しかしそれは若者には聞こえないが耕作の周辺の人達には十分聞こえる声の大きさであった。
 何人かの乗客は、勝ち誇ったような耕作の言葉にしっかりと『共感した』というように大きくうなづくのだった。
 駅に降りた耕作は足取りも軽くプラットホームを駆け抜け地上に上がった。二日前の沈みこんだ表情とはまったく違う晴れやかな表情であった。
       
 改札を抜け会社に向かう。当然、回りは日本経済の維持安定・さらなる発展を担うビジネスマンの群れである。社会的道徳が全身に染み込む大人達の集団であった。
 前屈みに歩き続ける、疲労感を全身から放出するような回りの人達はいつもなら耕作の勤労意欲を奪い去るのであるが、その日の彼等は耕作に生きる意欲と喜びを与えてくれるのだった。何より、その行進の中に身を置いて、その流れに従って歩き続けることは母親の子宮の中にいるような安心感を与えてくれるのだった。
 
 会社に着いた耕作は特別誰かにというわけではないが適当に挨拶をし、自分の席に着いた。
 朝の挨拶は自分の存在をアピールするサラリーマンにとって最も大切な行事である。
 上司に対しては『山路耕作は遅刻もせずに出勤してまいりました』という報告であり、自分より年下の者に対しては『先輩が来たんだから気を使え』というセレモニーでもあった。
 耕作が来た事に気付いた事務の女の子が耕作の湯飲みにお茶を入れて持ってきた。
 ありがとうと言ってお茶を飲む。特別今日のお茶は美味しいように感じるのだった。
 それにしても、数年前は女の子が入れるお茶を恐縮して飲んでいたのに今は平然と当たり前のように飲んでいる。今更ながら、耕作は年を取ってきたということを認識するのだった。そして、無理に若者に同調する必要もないのだと、昨日からの若者に対する復讐を正当化するのだった。 
 耕作がお茶を飲んでいると三宅と進藤が遅刻すれすれで出勤してきた。二人とも耕作に挨拶もしない。そのくせ、課長にはしっかりと腰を九十度近くまげて挨拶をしていた。
 耕作は土曜日の事を注意してやろうかと腰を浮かせかけたが、思い止どまってそのまま椅子に深く座り直した。
(止めておこう。あの無礼な二人組には注意よりも天誅だ。特に三宅は鼻持ちならないイヤな奴だからあいつにはスペシャルをお見舞いしてやろう)
      
 全員揃った所で打ち合わせが始まった。打ち合わせと言ってもほとんどその日の行き先を告げるだけで特別管理職から指示が出るわけではない。行き先を黒板に書けば済むことを二度手間になるのにしているのである。
 かつて、朝の打ち合わせ兼、報告会について課長に文句ではないが質問をした事があった。
 その時課長は「山路君、企業というものはそういうもんなんだよ」と苦々しそうに言った。そして、面倒な事を聞かれても困るんだよな、という憮然とした表情で席を立った。      
 そんな事を考えていると耕作の番がやってきた。
「午前中は村上産業に行こうと思います」
 耕作は適当に思い付いた得意先の名前を口に出した。嘘を言っているわけではない。本当にちょっとした用事があって行こうと思っているのだが、どうしても本日中に行かなければならないような特別な用事があるというわけでもなかった。
 耕作の会社は特に売り込まなければ売れない商品というものを扱っているわけではなかった。適当に売れていくのである。営業をさぼったからと言って成績が落ちるわけでもないし、がんばったからといってそのがんばりが売上に顕著に跳ね返るというわけでもなかった。
 クレームや商品に対する質問を受けたり説明をすることが主な仕事内容で、どちらかというと営業に出るよりも会社のデスクに座って対応する方が効果的であった。それなのに今年配属になった課長は随分昔に営業で大口の注文を取ったことがあるとかで、耕作達部下に営業を強制するのだった。
 おかげで会社を出て喫茶店に行き、息抜きをすることができるのだが、その反動で会社に帰ってから事務処理が山のように残ってくるのだった。
 耕作は毎日喫茶店に行く程お小遣いも貰ってないし時間の潰し方に苦労していた。毎日